「愛するということ」の原題
「愛するということ」の原題は「the art of loving」であり、「愛するという技術」と訳すそうだ。artにそんな意味があるんだと初めて知ったけど、いずれにせよ、art、つまり創造性は愛と同じ領域にあるものだから、loveはart(意識領域からの能動的な創造)だよなと思った。
私はこの「創造性」を、意識領域に在ればインスピレーションとして勝手に湧いてくるもの、と思っていたけど、それこそ「能動的な行為」としての提案になるほど〜と思った。love(名詞)でなくて、loving(動詞)なのも。能動的な愛するという行為はそれ自体がartなのである。
Artの同じ使い方をしている言葉として「リベラル・アーツ(liberal arts)があって、これは「人間を自由にする技術」という言葉だそうだ。
この言葉に惹かれていたのは、それを必要としていたからなんだな
いずれにせよ、愛、創造性こそが自由ということは疑いない。
確信に基づき、行動を行う。それを信念という
そして私は、生きづらさの全ての根源は愛するという技術がないことであり、幸せな人生を生きるキーは愛するという技術を育むことだと確信した(…自らの確信に基づく「信念」)ので、この技術を「the art of loving」を体得することに決めた。
何かを自分のものとするには、“やる気待ち”せず日々行う姿勢や、結果を急がない構えや、目の前の行為に意を注ぐ集中力が必要だけど、エゴに引っ張られることなくそれらを成し遂げるには「信念」が必要だという。
もう、ごく個人的な理由に依るのがいいと思う。私はもう愛の欠如による人生を浪費したくないし、意識的に生きたいのだ。
どっちの意識が私か?
目の前の行為に全ての意識を注ぐこと。お茶を飲むならお茶を飲む行為に、人と話すならその人の話を聴くことに。
目の前の行為に集中すればするほど、意識はますます覚醒して明晰になるという。起きているときは意識的に、眠るときだけ無意識になることが、本来の人間のやり方。だけどほとんどの人間が起きているときに意識を失っている。その結果として、眠りにつくときに意識が覚醒してしまうのだという…。
直感的に正しいなと思った私は、ベッドに行くまでわずかな時間だったけど、無意識な時間を少なくし(無目的なSNSやYouTube、マンガ、ゲームの消費も、無意識な行為だと思う)目の前の行為を選択し、それに集中してみた。そして眠りにつくとき、自分の体の「無」に集中してみた。
SNSもYouTubeもマンガも見たし全部上手くいったわけじゃなかったけど、入眠が苦手な私がすっと眠れたのは、この行為の結果だったと思う。
信念に基づき生活する。私であれば、「the art of loving」の習得のために生活する。それに照らすと、惰眠をむさぼることは望みではない。
翌朝、早めに予定があったので一応かけていた目覚ましより先に目が覚めた。目覚ましは「外因」なので、自分のタイミングで起きる方が好ましい。
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