「祈り」の効能なんて信じてなかった。
災害や事件が起こる度に見かける「#Pray for ◯◯」なんてうすら寒いと思っていたし、何の助けにもならないと思っていた。
だけど、スリランカでたくさんの祈りに出会った。たくさんの祈りを放った。そうして今、「祈りとは、愛の照射である」と思うに至った。
スリランカには、祈りがあった。まずもってホテルに着いた瞬間、まず祈らされた。笑
そのホテルはアーユルヴェーダの治療院のようなスパリゾートで、医師の診断・マッサージ・食事・投薬・ヨガや瞑想のクラスを通じてホリスティックな治療を提供している。私の場合はその先15日間の、その営みの成功を祈れというのだった。
ちなみにホリスティックとは「全体とは、部分を足し上げた以上の何かである(The whole is greater than the sum of its parts)」というアリストテレスの言葉に代表される考え方だそうです
高いお金と時間を投じて来ているので、いい感じになってもらわないと困る笑。し、アーユルヴェーダを選んでいる時点で、神聖な何かを期待している部分もあったので、これ以上ないスタートにノリノリで祈った。
その後も、Wadduwa(ワドゥワ。ホテルがあった村の名前)で過ごした15日間の中には、たくさんの祈りがあった。
マッサージを担当してくれるプリヤは、施術を始める前に祈ってくれた。その日の施術の成功を祈ってくれているのだとドクターに聞いた。
ホテルでは、たくさんのゲストの滞在が交差していた。訪れる人がいて、迎える人がいて、去る人がいて、見送る人がいた。そして互いに祈りを送り合った。
🕊️あなたのここでのスピリチュアルジャーニーが素晴らしいものとなりますように
🕊️あなたのこれからの人生がいつも平和でありますように
私たちは、立場を入れ替えて、祈りを受け取り、送り合った。祈りを受け取るとき、そして今思えば送るときも同じく、いつも胸が満ちた。
祈りは確かに行為であって、それは他者へ愛を放つことだと思った。スリランカ前後で身につけた「愛」の効能。それを自分のみならず、他者へ照射することが「祈り」なのだと思った。
だからこそ、祈りの当事者になるとき、胸が満ちるのだと思う。それは愛の感覚なのだ。私たちの最奥の根源的な実存。輪郭のないつながり。すべてのパターン。祈りとは、私たちがつながっている空間を通じて、その人の存在のパワフルさを思い出させると同時に、最良の可能性を相手へ送ることだと思った。そして、愛なればこそ、祈りは時間を超える、距離を超える。そうして作用する。
「祈り」の効能なんて信じてなかった。だけど、Wadduwaでの15日間を通して、それが確かな効能のある行為であると知った。
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